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カトリック三河島教会の案内

出処 2000年4月23日初版発行
編集者 ガエタノ・コンプリ神父様 ドンボスコ社刊

 

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私も教会に来てよいですか。

 

もちろん、ご遠慮なく教会へいらしてください。生きがいや神の救いを求めている方々のために、教会の門はいつも開かれています。教会へ来ている人々は、みな、あなのように正しい道を求めている人々です。

 

教会は、みなのためです。なぜなら、人間は、みな神の子であるからです。若い人も年配の方も、元気な人も弱い人も、学問のある人もない人も、みな神の子なのです。神はみなを愛しておられる方です。あなたも、必ず、神から愛されています。

 

私たちは、毎日曜日教会に集まって、神を礼拝し、み教えを聞くのです。どうぞ、気楽に私たちと一緒に神に祈り、み教えを聞きに来てください。

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教会を訪ねて、どうしたらよいのでしょうか。

 

それはご心配いりません。はじめは、わからなくても結構です。すこしずつ、わかるようになるでしょう。教会の入り口に案内や整理をする人がいれば、「はじめてです」と言ってください。親切に案内してくださるでしょう。

 

まず、教会に入って、あいている席についてください。教会には、式の途中でも、どなたでも入れます。まわりの人と同じようにすればよいのです。人がすわるとき自分もすわり、立つとき自分も立つというぐあいに。

 

不安を取りのぞくために、友だちをつくって、教えてもらえばよいでしょう。まず、早いうちに、その教会の神父さまに自己紹介をしてください。気持ちよく迎えてくれるでしょう。

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神父さまとは、どういう方ですか。

 

神父さまは、教会の指導者、神の道を教える人です。ミサや他の礼拝を司式するので「司祭」とも言われます。みなのために祈り、信者を導き、教えを説くのです。子供も大人も、年配の方も、どなたでも気軽に神父さまに話し、かれと相談し、悩みを打ち明けることができます。

 

神父さまの住いは、教会の側にある「司祭館」です。自分のすべてを神と教会にささげますので、カトリックの神父は結婚しません。それは、みなのお父さんになるためです。

 

教会が大きければ、二人以上の司祭が仕事を分担し、「主任司祭」の他に「助任司祭」その他の担当者がいます。また、イエスの教えを伝えるために「宣教師」として外国から来た神父もいます。むずかしい日本語を覚えて、日本人のために命をささげている方々です。

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神様に何を祈ればよいのですか。

 

世の中に「苦しいときの神だのみ」という言葉があります。もちろん、困ったときに祈るのもよいでしょう。でも、祈りは困ったときだけのものではありません。

 

あなたは、どうしてこの世に生きているのかを、考えたことがあるでしょう。命、身体、毎日の糧、自然の恵みなどは、全部、ただでもらったものです。どなたからもらったのですか。どなたがこれらを造られたのでしょうか。あなた自身やあなたが使用しているものも、すべて神の恵みです。

 

祈ることは、まず、「神に感謝する」ことです。あなたがいただいたすべての恵みのために、神に感謝してください。今ここにいること、健康であること、幸せであることを感謝してください。感謝することの大切さは、古来の日本の考え方にもある通りです。

 

また、祈ることは「神を賛美する」ことです。自然、小鳥、花、子供の素直さ、すべての美しいものの中に、神の知恵と偉大さを感じ取って、神を賛美してください。

 

最後に、祈ることは、謙虚な気持ちで「神にお願いする」ことです。あなたの悩みと必要なことを神のみ心におゆだねください。神は、私たちの幸せを望んでおられる方なのです。

 

神はどこにもおられる方です。すなわち、祈る場所はどこでも結構です。でも、教会の静かな雰囲気の中では、もっと落ち着いて祈れるでしょう。平日でも、教会があいているときは、ひとりで祈りにきてもいいのです。神に祈ることによって、あなたの心は安らぎを見出すでしょう。

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教会の中を説明してください。

 

教会は私たちが共に神に祈り、み教えを聞く場所です。そのため、みなが一緒に集まれる広い場所となっています。

 

入ってみると、真正面に、教会の中心となる「祭壇」があります。式を司る司祭は、この祭壇でみなの祈りを神にささげます。祭壇の側に「朗読台」があります。それは、聖書朗読や説教をするところです。

 

また、祭壇に「十字架」が飾られていて、信者はそれに向かって敬意を表します。イエスがみなのために命をささげられたことを思い出すためです。

 

両側の壁には「十字架の道行き」の14場面が飾られています。キリストのご受難とご復活を黙想するためです。キリスト信者は、ご受難とご復活のことをしばしば記念します。また、教会にはマリア様や他の「聖人のご像」も飾られています。キリストにならい模範的にみ教えを実行した人たちを思い出すためです。もちろん、この方々は神ではありません。

また、教会の中に洗礼を授ける場所もあります。「洗礼」とは、キリストに従って生きようとする人のための入門式です。受けられるのは、よく準備した上で、自分からそれを望む方々だけです。

 

入り口には、水の入っている器があり、司祭の祈りで聖別された「聖水」が入っています。教会に入る時、手の先を聖水に浸して「十字架のしるし」を切る習慣があります。これは、神から心を清めてもらいたいという気持ちを表すためです。

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日曜日の礼拝「ミサ」とは何ですか。

 

ミサとは、カトリック教会で行ういちばん大事な祈りです。日曜日の他に平日、また、結婚式、葬儀などの大事なときにも行います。司祭が司式し、信者と共にミサをささげるのです。

 

ミサの由来は、キリストの最後の晩餐、彼が死を迎えようとされた時にさかのぼります。その時、十字架の死を覚悟しておられたイエスは食事の途中、パンと葡萄酒の杯を取り、弟子に与えて、こう言われました。「これは、あなたがたのために渡される私のからだである。これは私の血である。私の記念としてこれを行いなさい」

 

そのとき以来、教会はキリストの命令どおりに最後の晩餐を繰り返してきました。それによってキリストの死と復活を記念し、私たちの救いのために神にいのちをささげられたキリストに、心を合わせるのです。ミサのとき、神のすべての恵みのために感謝をささげることにしています。それでミサは「感謝の祭儀」とも呼ばれます。

 

なお、このとき、私たちはキリストを記念するために、まず、その教えを聞きます。すなわち、ミサの前半には「聖書」が読まれ、「説教」が行われるのです。日曜日に読まれる聖書の箇所は、原則として「旧約聖書」から一箇所と、「新約聖書」からイエスの「使徒たちの文書」と「福音書」のそれぞれ一箇所です。

 

毎日曜日、どんな箇所が読まれるかは、全世界の教会のために決まっています。みなの便宜のため、その日の聖書朗読を印刷したものが準備されていますので、教会の入り口で「聖書と典礼」というパンフレットをもらってください。それは、ミサが済んでから持ちかえっても結構です。ミサの祈りの順序が書いてある小冊子もあります。それを使ってすぐになれるでしょう。歌われる聖歌は、また別冊にあります。教えてもらってください。

 

ミサの途中、みなが立って祭壇に進み「ご聖体」という白いパンをいただくとき、あなたは自分の席に残っておすわりください。洗礼を受けた方だけがいただくからです。教会によって、そのとき、洗礼を受けていない方のために祝福を祈る習慣があります。お望みならば、前に進み、頭を下げ、手を合わせたまま祝福をいただいてください。

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神様はどういう方ですか。

 

神様のことを知るためにには、聖書の教えがいちばんよいとおもいます。たとえば、パウロというキリストの弟子は、次のように説明しています。

 

「神は、世界とその中にあるすべてのものを造られたかたです。天地の主ですから、手で造った神殿などにお住みになる方ではありません。

 

また、何か足りないことでもあるかのように、人に仕えてもらう必要もありません。神は、すべての人に命と息と、他のすべてのものを与えてくださるお方です。人々が神を探し求めさえすれば、見出すことが出来るでしょう。なぜなら、神は、私たち一人一人から遠く離れておられる方でないからです。

 

ある詩人が言ったように、『我々は神の中に生き、動き、存在する』のです。だから、神を、人間の技と考えによる金、銀、石の像と同じものと考えてはなりません」

 

なお、イエスは、神が私たちを愛してくださる「天のおん父」であると教えています。

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イエスさまとは、どういう方ですか。

 

イエスさまは、私たちに神の道を教えてくださった方です。

 

およそ二千年前、イスラエルのベツレヘムで貧しい状態でお生まれになり、三十歳ぐらいで、国を廻って人々に教えたり、不思議なわざを行ったりされました。だが、わずか二、三年後、西暦三十年ごろ、十字架にかけられました。

 

ところが、聖書の言うとおり、三日目に復活され、弟子たちにお現れになりました。全世界にみ教えを伝えるようにと命じられたのち、神のもとへお戻りになりました。

 

イエスさまは、ご自分が旧約聖書で約束された「メシア・キリスト」世の救い主、また、天のおん父が世に遣わされた「神の子」であることを宣言されました。

 

ご自分の教えを「福音」、すなわち「よい知らせ」と呼び、それに従って生きるならば、幸せになれると言われました。こうも教えられておられます。

 

「自分と同じように、他人を愛せよ」

 

「自分が他人からしてほしいと思うことを、他人にしなさい」

 

「もらうよりも、与えることに喜びがある」

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マリアさまとは、どういう方ですか。

 

マリアさまは、イエスさまの母です。イエスさまを育てただけでなく、十字架のもとに立つほどの勇気のある方でした。彼女は、救い主の母となるために、どんな人よりも神から恵みに満たされ、だれよりも神さまとみ子イエスをお愛しになった方です。そのため、教会の信仰の模範となり、私たちはその手本に見習うようにしています。

 

私たちは、マリアさまを尊敬し、神の前で取次いでくださるように祈ります。それで、教会や家庭でマリアさまの肖像を飾ったりするのです。

 

なお、私たちは、イエスさまに従うように努めたすべての人々をも尊敬します。かれらが天国で神さまから愛され、永遠の幸せを得ていると信じるからです。

 

その中で、いちばん模範的な人は教会で「聖人」と呼ばれ、私たちはその取り次ぎを願い、その模範に見習うようにします。日本の教会にも多くの聖人がいますが、その中で特に尊敬されているのは、信仰をもたらした聖フランシスコ・ザビエルと信仰のため殉教した二十六聖人です。

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聖書は、どういう本ですか。

 

聖書とは、神が行われた救いの歴史と神の教えを伝える本です。「旧約聖書」と「新約聖書」に大きく分かれています。

 

旧約聖書は、イエスが生まれる前に書かれたもので、四十六の文書からなっています。新約聖書は、イエスの生涯とその教えを伝え、二十七の文書からなっています。

 

旧・新約聖書は、ともにキリスト教の「正典」、すなわち、正式の教えの本です。書かれた時代と文化圏が違うので、正しく理解するためにいくらかの準備が必要です。はじめて読まれる方には、イエスの教えを伝える四つの福音書が勧められます。

 

わが国には、最近、いくつもの日本語訳聖書があります。カトリック教会から出ているものには注解があります。それは、助けとなるでしょう。また、聖書を分りやすく紹介する本もありますので、はじめて聖書を読まれる方には、そのような本が勧められます。

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カトリックとプロテスタントは違いますか。

 

カトリックとプロテスタントは、ともにキリスト教です。聖書も同じです。けれども、聖書の解釈とそれぞれの教えには、多少の違いがあります。信徒の数から見れば、世界のキリスト教の大部分はカトリック教会に属しています。

 

カトリック教会は、教えも指導も世界中で一つになっています。最高指導者は「バチカン」に住むローマ法王です。教会では「教皇」と呼びます。教会は「教区」に分かれていて、各教区の責任者は「司教」です。日本には十六教区があります。なお、各教区の中に多数の「小教区」があります。

 

プロテスタントは、十六世紀、宗教改革の時、カトリックから分かれたものです。現在、世界中二万ほどの宗派に分かれ、日本だけでも数百の違う宗派があるそうです。最近、キリスト教の中に「再一致運動」が盛んになり、共同訳聖書も出版されました。

 

なお、「モルモン教」「エホバの証人」「統一教会(原理運動)」などはその教えからみてキリスト教とは言えないので、キリスト教から区別してください。

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修道院やシスターとはどういうものですか。

 

教会には、いろいろな活動が行われています。子供、病人、年寄りの世話、教育、宣教、研究などのような活動が必要です。こういう活動には、何よりも献身的に働く気持ちの人が望まれます。

 

教会の中に、こうした目的のために働く有志の団体が、数多く生まれてきました。これらの団体を「修道会」と呼び、教会の認可を得て事業に従事するものです。宣教、教育、福祉に一生をささげたい信徒は「修道者」となり「修道院」に住みます。

 

女性の修道者を「シスター」と呼びます。会によって服装は違いますが、修道会は、プロテスタントでいう宗派と違い、みな、同じカトリックです。

 

日本には、多くのカトリック系のミッション・スクールや社会福祉事業がありますが、これらのほとんどは、教育修道会によって設立され、その力で支えられています。なお、世俗から離れ、修道院で祈りの仕事に従事して一生をすごす修道会もあります。たとえば、トラピストやカルメル会はそのようなものです。

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家の宗教が違いますが、どうしたらよいでしょうか。

 

カトリック教会は、キリストの教えが正しいと固く信じていますが、他の宗教の教えが全部間違っているとは思っていません。教会は、他の宗教の中にあるよいところを理解するように努力しています。

 

経験が示すとおり、人間は、自分の間違いに気が付かないことがよくあります。また、弱い人間なので、すべてにおいて正しい人は、一人もいないでしょう。間違いは、もちろん正すべきですが、人の善意と心を何よりも大事にすべきです。すなわち、教会は、それぞれが正しいと思う信仰に従う権利を尊重するのです。

 

家に違う宗教を信じる人がいれば、お互いの気持ちを尊重するようにすればよいのです。その上、カトリックもお墓まいりをし、祖先に対する感謝を教えています。すなわち、家の代々のお墓がないがしろにされる心配はありません。

 

なお、洗礼を受けてない方でも、教会での結婚式がゆるされることがありますが、神様の祝福を得るため、その前にふさわしい準備が要求されます。

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家でとなえるやさしい祈りがありますか。

 

神に祈りたいときには、心のの中で神を思いうかべて、自分の言葉で祈ればよいのです。日本の習慣に従って、正座しながら手を合わせて祈れば、集中しやすくなるでしょう。

 

教会でも、同じように手を合わせて祈る習慣があります。祈るとき、自分が一生懸命にやっている毎日の仕事を神にささげればよいのです。よいことをしようとしているならば、その行いが必ず神に喜ばれるからです。よいことをしようとする心は、神へのいちばんすばらしい供物です。

 

また、祈る気持ちを助けるために、祈りの文句を覚えるのもよいことです。教会で特にみなが唱える二つの祈りがあります。一つは、イエスさまが教えてくださった祈りで「主の祈り」といいます。

 

もう一つは、聖書の受胎告知のことばから取ったマリアさまへの祈りです。ほかに、アッシジの聖フランシスコが作った「平和の祈り」もお勧めいたします。

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神はあなたの善意をご覧になります。

 

では、あなたが心の中に抱いている一つの疑問に答えましょう。それは、神は私たちのことをどう思っておられるのか、という疑問です。

 

おぼえていてください。-神は私たちを愛しておられる「天の御父」です。すべての人の救いを望み、すべて人が滅びるのをお望みにならない方です。従って、私たちの落ち度よりも私たちの努力、私たちの「善意」を見ておられるのです。目に見えるあなたの行いの結果よりも、あなたの「善意」をご覧になります。

 

善意とは、文字通り「善いことを望む心」、正しい方向に向かい、必要な限り、できる限り、知っている限り、正しいことを実行しようとする心なのです。正しく生きようとする人なら誰でもこの善意を持ち、神の御前で正しい人と言えます。

 

一所懸命にやっていて、たとえ間違ったことがあるにしても、恐れることはありません。神は、できないことは、要求されないからです。行いの結果よりも、あなたの心を見ておられます。間違いは、罪ではないのです。

 

私たちの一生の課題は、善に励み、罪を悔やみ、いっそうの善意を育てることです。イエスの教えと神の恵みによって、あなたの善意がいっそう大きくなるでしょう。

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他人の善意を認める努力をしましょう。

 

お気付きでしょう。私たちいちばん傷つけらけられるのは、その善意が疑われるときです。確かに、人間は弱いものです。たとえ、一所懸命にやっているつもりでいても、行いが間違っていることもあります。やはり人の善意は完全なものではないのです。

 

でも、最高の宝、最後の拠り所です。善意までも疑えば、その人には生きる場がなくなり、付き合いも不可能になります。難しいときもありましょうが、神がされたように、善意を認める努力をしましょう。

 

世の中の悪は、目にあまるときがあります。憎しみ、いじめ、権力争い、だまし・・・・・。反面、目に見えない善意も、そして、弱さ、疲れ、未熟さなど弁解の理由もあるのです。他人に対して、責めよりも、励ましと思いやりが必要でしょう。「他人からしてほしいと思うことを、あなたも他人にしなさい」というイエスの御言葉を思い出しましょう。

 

なお、相手の善意を認めれば、違う考え方や信仰の人に対しても寛容さが可能でしょう。実際に、神の御前に大切なのは、人の考え方よりも人の救いなのです。神は、御憐れみによって、善意あるすべての人をお救いになると教会は信じています。

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